熊野川、創作落語
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熊野川
 
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桂 文枝・創作落語「熊野詣」で辿る日本人の心の原郷

「胎内くぐり」の岩の外観写真。
―紀州に入りましたこの親子連れ、紀州路をのんびり四日ほど歩いて田辺へとやって参ります、田辺から熊野へは山ん中を分け入る中辺路というそれはそれは険しい参詣道―
霊場「熊野三山」にいたる参詣道は、出発地点に応じていくつかの経路が開かれている、落語に語られる平八・孝介親子同様、最もポピュラーだった中辺路ルートのスタート地点に立った、このルートは比較的整備された古道だ、とはいえ鬱蒼と苔むす森に分け入るのは決して楽でない、霊域への始まりとされる熊野九十九王子のひとつ滝尻王子の前に佇み、そっと手を合わせる「蟻の熊野詣」と呼ばれるほど賑わいをみせた往時の参詣者がそうしたように、そして彼らを難行苦行に駆り立てたこの先に一体何が待ち受けていたのか、いまを生きる自分たちの肌身で体験できますように、と。
―紀州和歌山は南の端に位置しておりまして、熊野という地名は「すまっこ」という意味、なんやしら摩訶不思議なとこなんですな―
古道を踏みしめ記憶を語り魂を繋げる熊野古道を歩くとき、この道にいきいきとした時代の息づかいをよみがえらせてくれる存在に「語り部」が挙げられる、その一人本宮町の語り部の会会長の坂本勲生さんは、語り部はこれまで15名ほどだったが世界遺産登録を受け県の研修をはじめとする研究会にも「世界遺産に登録された本質を語れるメンバー」の養成・増員に余念がない森羅万象のエネルギーが輪廻する鎮守の森でひたすら光を求め蔓を伸ばす花を見つけたとき「これが藤原定家がこよなく愛したといわれる定家葛、この小さな生命からも千年余の時代へと遡ることができるのですね」と坂本さん、テイカカズラは寄せ植えなどの脇花として普段目にすることの多い植物である「テイカカズラを定家葛と変換すると、いままでとは違った思いが込み上げてくるから不思議」と菜穂さんは笑みをこぼす、平安時代から鎌倉時代、上皇や貴族など雅な方々が競って熊野詣をしたことは書物などで、つまびらかであるが後鳥羽上皇にお供し、その様子を日記「後鳥羽院熊野御幸記」に残したのが歌人藤原定家である、日記によると後鳥羽上皇は熊野詣の途中、数々の王子社などで和歌の会を催し神仏を楽しませたと記されている、熊野を愛し郷土史を研究し自分のものとして語る人の「言葉」は力強く人間味に溢れている、だから旅人は、ともすれば見過ごしてしまう路傍の一花一石にまで目を凝らし新しい自分に出合えるだろう「熊野古道はただ歩くためだけの移動の道ではありません、もちろん何キロを何時間で踏破するといったスピードを競う道でもありません、太古の時代から今日まで見守り続けてきた樹木や苔に覆われた石仏の一つ一つに遥かな歴史が刻まれているのです、世界遺産に登録されたのはこの人智を超えた壮大な自然に敬意を示し祈りを捧げた人々の信仰によって育まれた文化的景観に対するものだと理解しています、だからここを訪れる人たちにも目に見えるもの見えないものの両面からその本質を語り継いでいきたいのです」いまここに立つ人たちもまた歴史という圧倒的な客観性が育んだ文化的景観を創造する一員であると坂本さんの言葉。
―八咫鳥「これから言うこと、よー聞けよ!ウッホン!我が国を開きし神武天皇、熊野から大和へ攻め上がりし折り熊野の神様の遣いとして、その道案内をいたした由緒正しき八咫鳥、わしはその百代目の子孫であるぞ、遠慮はいらん、早いとこ、わしの背中に乗りなはれ、お前はんらに、いっぺん熊野をぜーんぶ見せてやろと思てな、ちょっと見てみい、山深い中にポツンとお社がみえるやろがな、なー、あれが先に参る本宮さんや」―
祈るから甦る! 甦るから祈る!
本宮さんとは霊場「熊野三山」の一つ熊野本宮大社のことである、「熊野速玉大社」「熊野那智大社」と並び多くの伝説を秘めた熊野信仰の拠点であり人々が祈りを捧げた聖なる場所なのだ。熊野本宮大社の大鳥居へ向かう手前、熊野川の支流である音無川沿いを歩く、現在の大社は明治22(1889)年に襲った大洪水で建物のほとんどを押し流されるという
被害に見舞われたとき辛うじて残った社殿4社を神像とともに小高い丘に移築したものだ、川の合流地点にできた中州・旧社地はいまも「大斎原」と呼ばれ今でも聖地であることに違いはない。大樹の葉を揺らす風の音と花鳥風月が眩しく映る「陽の光も空気も緑も東京とはまるで違う」と菜穂さん、「難行苦行の末この輝かしい場所に辿り着いた人たちは堰を切ったように湧き出てくる祈りに甦りの力を感じたかもしれませんね」と感慨深げな師匠、二人を出迎えたのは今後ますます増えるだろう海外からの来訪者を英語で案内する澤 裕美さんだ「日本古来の文化を英語に置き換えるのは簡単ではありませんが熊野には想像力を喚起する大いなるものがあるから、まずそれを感じてもらえればと思っています」と。
熊野には人が人として生きる魂の受け皿がある熊野本宮大社宮司の九鬼家隆さんが大斎原と中上健次さんにまつわる興味深いかかわりを教えてくれた、ここを使わせてほしいという中上さんの申し出があり1986年7月、中上健次さんの作品「かなかぬち」公演が大斎原を舞台に繰り広げられた。菜穂さんは「子ども時代は父のテリトリーである熊野に入るのがなぜかしら怖ろしかった、でも大人になるにつれ父が口癖のように言ってた熊野はつねに開かれた地球すべての地につながるものでありたい、すべての魂をつなげるものでありたい、という願いを実感として理解できるようになりました、自然界を構成するのはすべからく曲線でここ熊野には自然を司る神様が創造したとしか思えない、母なる胎内のようなやさしさが満ちているんでしょうね、これが人をまっさらな自分に生まれ返らせる力になるからこそ世界のふるさとなんだと思う」と。
写真 滝尻王子の背後に「胎内くぐり」と呼ばれる岩がある。これをくぐり、俗世の穢れを祓うことが、熊野三山へと向かう儀礼とされていた。写真は「胎内くぐり」の中から外を撮影したもの。実際には写真左下の穴から入り、右上の穴から抜けることになる。
創作落語「熊野詣」 桂文枝師匠渾身の意欲作
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